清吉そばや 中華 清吉そばやの歴史

Categoryらーめん
お昼を食いっぱぐれました。
そうなるともうここしかありません。

ハイハイしかできなかった赤子の時分より両親から「ペロ」として食べさせられてるせぎぢ中華は、完全なるソウルフード。

大正※時代の創業です。

その昔、大正十年前後から昭和十年代にかけて、通称あじゃ(子守り)・本名佐々木ナミエさんという方が働いておられたそうです。


この方は本荘中(現・本荘高校)の生徒たち、とりわけ端艇部の生徒たちを可愛がり、金のない生徒にはタダでそばを振舞ったり、「男だば、酒っこぐれ飲めねば」と湯飲み茶碗に酒ついで飲ませたり(自らが大酒豪だったらしい)、はたまた、当時流行歌を唄うことが禁止されていた本中生に蓄音機でレコードを聴かせたなどなど、多くの逸話が残っています。

そんなアネゴ肌のあじゃが怒るとかなり怖かったらしく、非礼、不人情、傲慢を働いた生徒は大声で叱られ、首を縮めてうなだれる生徒も多かったとか。
その叱られた生徒たちの多くはその後社長や、校長といった大物になったようです。

昭和22年、あじゃが亡くなった際、枕元には分厚い写真アルバムがあったといいます。お世話になった本中生が卒業時にお礼として一枚写真を届けるのが習わしだったからです。

あじゃはその写真を何よりも大切にしていたと思われます。

あじゃから面倒をみてもらった本中生の方々もほとんど鬼籍に入られたことでしょう(存命なら100歳前後のはずです)それくらい長い歴史が、ここ清吉そばやにはあるということなのです。

なお、あじゃことナミエさんは市内の泉流寺に埋葬され、今もお盆になると供え人知らずの花や供物があるといいます…。

(参考文献並びに挿絵 「母校賛歌 わが青春の本荘高校」)

ちなみに私も高校時代、ちょっと社会的にいけないことをして、近くの本○署からの帰りに親父と差し向かいで食べた中華の味が未だに忘れられなかったりします。

他の思い出を語ると長くなりそうなのでやめておきます(笑)


さて、三時半にもかかわらず、今日の中華はスープメチャ熱で、こってり油感もバッチリ。肉も多めでラッキー。

注文通りの硬麺は言うことなし。


久々にフルパワー100%超ウメせぎぢ!


私の子供たちにもソウルフードとして受け継がれていってもらいたいものと思いますが、本○署の厄介だけにはなってもらいたくないですね(笑)

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追記


本日子供の運動会が中止になったので時間が余り、カダーレ内の本荘図書館にて、清吉そばやの歴史について何か調べられないものかと悪戦苦闘してきました。

その結果何点か興味深いことが判明しましたので追記します。

まず創業についてですが、非常に確実な情報が一つ見つかりました。

それは本荘出身の文人・小島彼誰(こじまかわたれ1894~1960、北陽堂書店店主)の「幼年記」という書物内に、明治24年には既に加藤そばやという名前で創業していたと書かれていたのです。

その後明治36年には清吉そばやと今の名称になっていたと書かれているのです。
ということは、創業は大正ではなく、確実に明治時代ということになります。

また、本荘町政便りの昭和27年6月の記事の中に「本荘の名物」を町民に公募した結果が載っていました。
1位~4位がすべてもろこし屋!
5位が刃物屋、そして6位に清吉そばやがランクインしていました!

ちなみに名所の1位は、今もぼんずさんの隣にある永泉寺の山門でした。

ただ、明治期から現在の中華そばを出してるわけはもちろんなく(そもそも中華という言葉はその名が表すように中華民国誕生以降の表現なので、それ以前はすべて支那そば)正確にはいつ頃から今に伝わる中華を出し始めたのかはわからないのです。

先に記した本荘中の大先輩達も、かけそばを食べたと記してあり、支那そばを食べたとは書いてありませんでした。

ただ、本荘には昭和初期に「クジャク」という支那そばやがあったという文献もあるので、清吉そばやも同時期支那そばを作っていた可能性も残されます。

もっと調べてみる価値はありそうですね。

清吉のオヤジさんに直接聞けるうちに聞いておこうかな^ ^

追記2

関係者に事実を確認したところ、やはり清吉そばやは明治の中頃、加藤清吉さんという方が始められたそうです。

そして!

肝心の「中華そば」ですが、これはなんと今もたまに食券売り場に立つおじさんが若かりし頃東京で修行し、会得して始めたんだそうです。

おじさんの年齢や、私の周りの叔母などの証言を考慮すると、清吉で初めて中華そばが提供されたのは、昭和中期(20年代か)頃と推測されます。

追って調査を続ける予定です。

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